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明治学園アーカイブ
Meiji Gakuen
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※写真をクリックすると拡大され、説明をご覧いただけます。
※本アーカイブに掲載された写真の無断複製・無断転載はお断りいたします。
1.ひとつの家族のような学校 (1910-1948)
創立時に建てられた正門。今の総合体育館の奥の辺りになります。この階段を上がり、木の門扉をくぐって登校した当時の子どもたち。多くは明治専門学校の教員や安川財閥の関連企業の子弟で、すぐ近くの職員住宅や戸畑の牧山や千防の社宅から歩いて通いました。
明治尋常小学校の玄関です。ガラス戸の向こうは靴を脱ぐ上り口、さらに一段上がると長い廊下があり、職員室が右手前、続いて1年から6年までの教室が並んでいました。玄関の「明治学園」の額は「撫松」の雅号を持つ安川敬一郎先生の筆によるものでした。
創立すぐの小学校全景。登校時でしょうか。トロッコのレール沿いを歩く和傘の子どもがいるかと思えば、洋傘の子どももいます。周りにほかの建物は見当たりません。住所が“遠賀郡戸畑町”だった時代です。
1911(明治44)年の休み時間の校庭。和装に制帽姿の男子が元気に遊んでいます。ひさし屋根の下で見守るように立つのは、この年わずか一人在籍していた6年の男子だろうとのこと。先生が明専へ出かけて留守の時には、彼が上手にみんなのお守をしてくれたそうです。
1912(明治45)年の全校写真。子どもたちはまだ和装で、制服はありませんでした。ですが男子の制帽は今とほぼ同じで、Mに桜の校章がつけられています。女子はほとんど全員が当時流行していた大きなリボンで髪を結んでいます。
1913(大正2)年の卒業記念の全校写真(一部欠損あり)。まだ児童は全部で50名ほど、2学年ごとの複式学級でした。今と同じ校章の制帽に袴姿の男子と、大きなリボンをつけたハイカラスタイルの着物の女子。開校から3年、まだまだ小さな学校だった時の写真です。
1915年(大正初期)ごろ。校舎の前で遊ぶ児童たちの様子です。教室棟は木造平屋建てで、1年から6年までの教室が横に並んでいました。それぞれの教室に校庭への出入口があり、直接外に出られました。この校庭は今の中庭のあたりになります。
1915年(大正初期)ごろの全校写真。2列目中央に安川先生と松本先生がおられます。ほとんどの児童は和装ですが、詰襟姿の男子が数名います。当時この辺りで子どもの洋装は珍しく、洋服を着てくると、先生にその勇気を褒められたそうです。
第2代校長の福井愛吉先生。1913(大正2)年から1938(昭和13)年まで在任されました。全校で集まり、日替わりで児童が話をし、得意なことを披露した「昼会」、全校で競った「早算」、業間の自彊術体操などのユニークな日課や行事などは福井先生のご指導のもとに取り入れられたものです。
1915(大正4)年。大正天皇御大典の宮中宴に、学園の向かいの一枝で採れた蓮根が献上されました。今では閑静な文教地域といわれる学園周辺も当時は一面の田畑で、学園から戸畑駅まで行くには、途中ほとんど人家もないような丘を二つ越え、田んぼ道を歩いたそうです。
1916(大正5)年3月。戦前の明小では卒業記念の恒例だった全校児童の写真です。この年は玄関前で撮影しています。胸にリボンをつけた卒業生も、在校生もすがすがしい表情です。創立時に比べて少し児童数が増えてきたのが分かります。
1916(大正5)年5月5日、第2回の敬老会が行われました。1列目左から3番目には安川先生、3列目には真ん中に福井校長先生をはさんで4人の先生方が写っています。子ども達は歌や踊りなどを披露し、この日に配られるお菓子や福引き会の景品が楽しみだったそうです。
1919(大正8)年。現在も残る運動場の当時の様子です。子どもたちはみんな帽子をかぶっています。当時まだ学園の前の並木も今ほど大きくなく、周囲に高い建物もなかったため金比羅山など周囲の山々が写真に収められています。
1922(大正11)年、1年生の学級写真と考えられます。男子17名、女子6名の当時としては少人数学級、そして青い目をしたクラスメイト(3列目左端の男の子)がいたと80周年史に思い出をつづられた卒業生の方がおられます。
1922(大正11)年ごろの学級写真。男子は全員学童服姿ですが、まだ女子の制服はありません。この頃には和装は少なくなり、このクラスは全員洋装です。ただ、足元は裸足にわらぞうりの上履き姿。これは明治尋常小学校のきまりのひとつでした。
1930年ごろ(昭和初期)。明治尋常小学校には身体を鍛える行事が多く、相撲大会も行われていました。創立者の安川敬一郎先生は相撲がとてもお好きで、毎年この大会を楽しみにされていたそうです。(テント内の杖をついた帽子の男性が安川先生。)
1930年ごろ(昭和初期)の明専グラウンドでの大運動会の様子です。当時、大運動会は春と秋の2回行われていたそうです。玉入れに熱中する児童の姿は、今も昔も変わらない光景です。また、小運動会が毎月のように開かれ、学年別や紅白の対抗リレーで競ったそうです。
1930年ごろ(昭和初期)の学級写真。担任は後の3代校長、藤井宣輝先生。前におられた公立校では小2男子80人の学級(当時は小学校も別学が多く、60人以上の学級も珍しくなかった)を担任され、30人ほどの少人数学級で男女の区別が全くなく、人懐こくて仲のよい明小生に始めは驚かれたそうです。この写真でも男女に分かれず写っています。
1930年ごろ(昭和初期)。夏には遠泳が行われていました。場所は学校の近くにあった中原海水浴場でした。全員足を上げて、砂浜で泳法の練習中でしょうか。上学年は1里(約3.9㎞)泳ぐのが目標だったそうです。
1935(昭和10)年。安川ゴルフ場(現在の学園グラウンド)で撮影の卒業記念の全校写真。児童はみな制服姿で、6年生は前2列、花飾りを胸につけています。左端の中央やや上には勲章をつけた軍服の男性がいるのにも時代を感じます。
1935(昭和10)年ごろ。福井校長先生と子どもたちの凛とした表情が印象的な一枚です。1列目左端とその隣、そして2列目左端の男子をよく見ると、制服のボタンから胸のポケットにひもが伸びています。腕時計がまだ一般的でない時代で、懐中時計を身に着けているものと思われます。
1935(昭和10)年ごろの明小の先生方全員の写真です。明治尋常小学校は学年1学級ずつの小さな学校でした。福井校長先生(1列目中央)と6名の担任の先生方の優しい笑顔。家庭的で温かかったという当時の学校の雰囲気が伝わってきます。
1936(昭和11)年3月。小講堂で撮影の退職される先生とのお別れの記念写真です。卒業式と同じ日だったため、全校児童に6年生の保護者や家族も写真に加わってかなりの人数です。一番後ろの列は天井に届きそうになっています。
1936(昭和11)年に建設された撫松講堂。(写真は1954年撮影。)横には築山がありました。戦争、戦後の復興そして経済成長それぞれの時代に学園とともにあったこの講堂は、安川家の時代の建物として最後まで残りました。今の講堂棟の位置にありました。
1937(昭和12)年、男女ともに制服姿の学級写真です。1935年ごろに女子の制服も決まり、箱ひだのジャンパースカートに白のブラウスを着用しました。ベルトはバックル式ではなく、腰でキュッと結んでいました。夏服は空色の木綿のワンピースだったそうです。
1937(昭和12)年、3年生の遠足風景。龍潜寺(現在の八幡東区)の鐘楼にクラス全員が上がって撮った写真です。肩を組んでくっついている児童が多く、「家族のような学校で、みんな仲良しだった」と卒業生の方々が語られた、当時の明小の様子がしのばれます。
1937(昭和12)年ごろ。5、6年生合同の修学旅行の写真です。博多、太宰府、中津、耶馬渓をまわったそうで、この写真は大分県の耶馬渓で撮られています。いつもの遠足より遠くへ旅行するうえに、50銭分のお菓子の持参が許されていたのもうれしかったそうです。
1938(昭和13)年4月、満開の桜の下で撮られた新1年生の入学記念の写真です。この年の春から校長になられた藤井先生(最後列中央)と担任の先生方、子どもたちの初々しいながらも引き締まった表情が印象的です。女子も男子も長靴下をはいています。
1940(昭和15)年ごろ。小講堂でお母様方の集まり、「明光会」の写真です。全員が白の割烹着に「大日本国防婦人会」のたすき姿で裁縫の奉仕活動。後ろの壁には「国民精神総動員」のポスターも貼られ、学園にも戦争の時代があったことを感じさせます。
1942(昭和17)または1943(昭和18)年。制服姿はほとんどなく、私服の児童が多い写真です。戦時の物資統制「衣料切符制度」の影響で、制服が簡単には作れなくなっていました。ものを買いたくても自由に買えない、戦争の時代の1枚です。
1945(昭和20)年、終戦の年の1年生。児童はほとんどが私服で、国民服姿の先生も写っています。学園に空襲被害はなかったようですが、当時在職された先生は8月8日の八幡空襲では戸畑も黒い煤煙に包まれ、もうこの学校も焼けてしまうのかと思われたそうです。そんな時代にも学園は歩みを続けていました。
1949(昭和24)年ごろ、移管より少し前の写真と考えられます。放課後のようで、ランドセルを背負っている子どもたちや、掃除をしていたところだったのか、窓のところに立ってカメラの方を見ている女子児童たちの姿が収められています。
2.カトリック学校としての船出(1949-1965)
1949(昭和24)年。明治学園に派遣された最初の4名のメール方。学園のCNDへの 移管にあたり、準備のために福島の修道院を出発されるときの写真です。※メール(Mère)とは英語でMotherを意味するフランス語。当時学園では修道女の 先生方を“メール”とお呼びしました。
移管後初の理事長兼校長、メール・セント・マルグリット・ド・ランファン・ジェズ(Sr.コーション)。先生は1932年に初めて日本に派遣された5人のCND会員のおひとりで、まさに手探りで宣教活動を始められ、戦争中も福島に留まり、厳しい監視と困窮の強制抑留を耐え抜かれた方です。
1950(昭和25)年3月、撫松講堂前での中学1期生卒業の記念写真。男子は立襟や折襟などまちまちで、ジャンパースカートの女子も、よく見るとブラウスがそれぞれに違います。新設の中学に進学したところ経営移管、途中からカトリック校になるという大きな変化を多感な時期に経験された方たちです。
1950(昭和25)年ごろ。メール方と一緒に写るのは、パンなどの食品を持ってよく来られた進駐軍付きのハーンズ神父様。お祝い事のようで、テーブルにはたくさんの食べ物や飲み物が用意されています。小倉や芦屋などにも米軍基地があった時代です。
1950(昭和25)年ごろの写真です。まだテレビもなく、ゲーム機もない時代、メール方が放課後には一緒に遊んでくださったそうです。こうしたふれあいを通して、明治学園に来られたメール方と子どもたちは心を近づけていったのでしょう。
1950(昭和25)年に建設された中学高校校舎です。2年後には特別校舎などを含む増築が完了し、中高の学習施設が充実します。2階建てで、玄関の屋根には十字架、そしてギリシャ様式の大きな柱が伸び、知の殿堂らしい建物でした。
1950(昭和25)年。カトリックの学校になって2度目の冬のクリスマス会。撫松講堂に児童生徒みんな集まって、劇を見ています。戦後間もない時代に、こんなに大きなツリーを飾っていたのには驚きです。
1951(昭和26)年。修道会創立者マルグリット・ブールジョワが前年に福者となり、新しく作られた体育館は「列福記念館」と名けられます。今の学園聖堂のところにありました。この建物はのちに小学校の小運動場に移築されました。
1953(昭和28)年。晴れやかな高等学校第1回生の卒業の写真。「みどりの森に風かおる」の校歌はこの方たちの卒業式に合わせて、音楽が専門のメール・セント・マルグリットが作曲されたものです。
1953(昭和28)年の航空写真。建物は今と全く違いますが、運動場を囲む「学園の森」は変わらないのが分かります。現在の小運動場は先生方の住宅用地で、校舎との間に道路があります。森の中に修道院がもうすぐ完成するという頃です。
1953(昭和28)年。総長歓迎式で当時のメール・セント・マリー・コンソラトリス総長様に花束をお渡しする立派な晴れ着姿の小学生代表。総長様ご一行の滞在中、遠くカナダから来られたお客様方を学園を挙げて歓迎しました。
1953(昭和28)年ごろ。安川家の時代に建てられた小学校校舎の和風の玄関を背景に黒の修道服姿のメール方が写る、明治学園の移管の時代を感じる写真です。
1955(昭和30)年ごろ。小学校1年生の宗教の授業風景です。この日メールから教わっていたのは「守護の天使」についてでした。外観の写真は多い小学校旧校舎ですが、教室内を写した写真はほとんど学園に残っておらず、貴重な写真です。
メール・セン・シルベストロ(Sr.パーマー)。移管後すぐに、初めは英語教師として学園に来られました。戦後間もない時代に外国人、しかも全身黒の修道服姿の先生と出会いは、移管期の学園生にとって新鮮な衝撃でした。(写真は1960年、校長様の時のもの。)
1955(昭和30)年ごろの大運動会。当時は小中高合同の行事でしたので、小学生の玉入れのかごは中高生が支えてくれていました。左奥の建物は列福記念館、右奥は1947年に新制中学開設の際に建てられた初代の中学校舎です。
1956(昭和31)年の航空写真。学園の中央には撫松講堂があり、それを挟んで西側に戦前からの小学校棟、東側に中高校舎がほぼまっすぐに並んでいました。列福記念館も見えています。
1957(昭和32)年。聖スルピス会の管区長様一行ご訪問時の写真です。威厳にあふれるメール方の黒の修道服は17世紀からのデザインで、服地はサージ。夏服はなく、年中この服装で過ごされました。蒸し暑い日本の夏はとても大変だったそうです。
1957(昭和32)年、秋の大運動会。運動場の奥からの写真で、右側には列福記念館が見えています。この時には現在の小学校校舎棟の建築が始まっており、校舎が建つ位置には土の山や資材置き場、そして鉄筋の柱の基礎が見えていて、高いやぐらも組まれています。
1958(昭和33)年。CNDの総長様、メール・セント・マリー・コンソラトリスが5年ぶりに学園を訪問され、歓迎式が行われました。総長様方と一緒にステージを見つめる小学生はみんな正座をしています。1936年建設の撫松講堂の内部のつくりもよくわかる貴重な写真です。
1958(昭和33)年。新しく図書館(現・小学校職員室棟)を建設するにあたって桜の木が伐採されることになり、「桜の木とのお別れ会」が行われました。この翌年には小学生も新しい校舎での生活を始めることになります。
1959(昭和34)年。今も現役の小学校校舎棟が完成し、9月24日に行われた祝福式の写真です。60年が経過しても建物の印象はほとんど変わりません。CNDの会章にもあるAM(Ave Mariaの意)の大きなリボン飾りが目をひきます。
1960(昭和35)年、卒業アルバム用に撮られた写真です。学園生にはなじみ深いこのマリア様のご像は1954年にコリンズ大佐夫妻から贈られたもので、その頃も今も中高校舎のそばで学園を見守ってくださっています。背景として映る建物は旧修道院です。
1960(昭和35)年の文化祭バザー。小学生の作品がたくさん展示されているこの会場はマルグリット・ブールジョワ列福記念館(体育館)で、壁に掛けられた書道作品には「創立五十周年」の文字が多く書かれています。
1960(昭和35)年。創立50周年記念式典の日の正門です。現在の位置にありますが、今ほど大きくなくシンプルなつくりでした。ただ、外から見える緩やかなカーブの坂道、緑の森が広がる景色は今も変わっていません。
1960(昭和35)年。創立50周年記念図書館が完成しました。当時は2階の外壁に十字架がデザインされていました。現在この建物は小学校職員室棟として使用されています。耐震リニューアル工事によって近年内部がまたきれいに整備されました。
1963(昭和38)年。この年、5市合併により政令指定都市“北九州市”が発足。学園の住所は“北九州市戸畑区”となります。高度経済成長の時代で、目を引くのは北側、海沿いに立ち上る煙突の煙です。戸畑では大気汚染が特に深刻で、社会問題化していました。
1963(昭和38)年5月13日。「母の日の集い」が行われ、小中高全児童生徒が運動場に整列し、代表が言葉を述べたり、花束をお渡ししたりして校長様への感謝を表しました。小学生のあいさつを受けているのは、メール・セン・シルベストロだと思われます。
1963(昭和38)年5月25日の「聖母行列」。今の「聖母の集い」となる前は、小中高の児童生徒全員で世界平和のため、また、学園の先生方、児童生徒とその家族の上に豊かな恵みを願ってお祈りを唱えたり、聖歌を歌ったりしながら学園中を行列してまわっていました。
1963(昭和38)年。中高体育館(第2体育館)の落成式が行われました。体育の授業や放課後の部活動で活躍したのはもちろん、文化祭・バザーで「体育館食堂」として長年多くのお客様をお迎えしました。この体育館の跡地に建つのが現在のカフェテリアです。
1963(昭和38)年9月29日に行われた大運動会の写真です。当時は運動会も小中高合同の行事でした。小中高全部門の児童生徒が運動場に一同そろって整列する姿はさぞ壮観だったことでしょう。
1964(昭和39)年9月17日。東京オリンピックの聖火が戸畑を通過した時の写真が学園にも残されています。後ろの建物は現在の戸畑図書館。当時は北九州市役所として使用されていたため、学園近くのこの場所を聖火が通り、世紀の一瞬を間近に見ることができました
1965(昭和40)年ごろ。東側から見た撫松講堂。その横は日本庭園になっていて池があり、「ミヤケ池」と呼ばれていました。管理館の植え込みに今もその庭の名残りがあります。
1965(昭和40)年ごろ旧修道院の玄関にて、メール方の笑顔あふれる集合写真。修道服は以前と同じですが、コルネットがベールに簡略化されています。
1965(昭和40)年12月24日。中高体育館での「メール・セン・シルベストロへの感謝お別れの式」です。先生は英語の教師として、その後は理事長、また“校長様”として16年間学園でお勤めになりました。厳しいけれど熱心な、澄んだお声の先生でした。
今では高校の制服も校舎も変わり、男女共学になり、時代とともに雰囲気は変わりましたが、修学旅行では変わらず今も京都・奈良を訪れています。興福寺の五重塔を背景に、たいへん美しい整列姿で撮られた一枚です。
3.学園の大きな成長と発展(1966-1988)
1966(昭和41)年。2月に「明治学園前交通信号機点灯式」が行われ、学部ごとに渡り初めをしました。通過中の西鉄バスは28番の戸畑渡場行き。横断歩道は陸橋に変わりましたが、今も同じ番号のバスが学園の前を走ります。
1966(昭和41)年。第2バチカン公会議を受けて、新しい制服になったシスター方。冬服は黒、夏服はグレーのお召し物でした。背景の左手には管理館、右手には撫松講堂が見えています。理事長が澤妙先生、校長がエリザベス・シュラッツ先生の時代です。
1960年代後半。1966(昭和41)年改訂の制服(紺色V字のジャンパースカート)を着用した高校生の教室風景です。運動会が近いこの日の学級会のテーマは「協力」と板書されています。
1966(昭和41)年。福島の修道院長様を歓迎するエリザベス・シュラッツ校長先生(中央左)と生徒たち。この年、修道服が変更になるとともに、“メール○○”と呼ばれていた修道女の先生方も「先生」と呼ばれることになりました。※メール(Mère)とは英語でMotherを意味するフランス語。
1966(昭和41)年ごろの小学校、英語の授業風景。カナダの修道会、CNDの学校として1949年の移管当初から英語教育が重要視されました。今では小学校の英語や外国人による授業は当たり前のようになりましたが、戦後すぐにも、この写真の頃にもこういった授業は珍しいものでした。
1969(昭和44)年の小学校修学旅行。長崎-島原-熊本と回るコースはつい最近まで同じでした。立派にそびえる熊本城の天守閣とともにみんなで撮った写真です。
旧修道院。かつては学園の森の一番奥の建物で、佇まいが美しくどこか神秘的な雰囲気を醸し出していました。現在その跡地は「Lコート」とよばれるバスケットコートになり、休み時間や部活動の時間に中高生が利用しています。
1970(昭和45)年ごろの登校風景。正門は今とほとんど変わりませんが、小学校体育館もマルグリット像もなく、柵が見えています。高校は今の制服が導入されたばかりで、後方にはV字のジャンパースカートの上級生も見えます。この頃中学男子は雑嚢を使っていました。
1970(昭和45)年。落成したばかりの講堂棟(左側は管理館)。当時の最新の舞台装置と音響設備を備えて作られた講堂は、今も学園の誇る建物です。半世紀にわたり様々な式典や行事を支え続ける、みんなの思い出の場所でもあります。
1970年(昭和45)年。創立60年の記念に現在の講堂棟が完成し、福岡教区の平田三郎司教様をお迎えして、式典と祝福式が行われました。保護者向けの施設内覧会も行われました。シュラッツ先生や澤先生はスーツ姿で参列されています。
1970(昭和45)年。この年の学園は新築ラッシュでした。講堂棟と同年に新築された4階建ての中学女子棟は、たくさんの柱が見える特徴的なデザインの校舎です。左側は元の中学男子棟、右下にあるのは元の高校棟です。
1973(昭和48)年。総合体育館(中央の建物)が完成しました。その右手には中高体育館かあり、中庭はテニスコートとしても使われていました。今でも総合体育館は主に中学の体育の授業に、部活にと活用されています。
1973(昭和48)年。第3回中学コーラスコンクールの様子です。明中の2学期を締めくくる行事は、この頃も今もコーラス。クラスごとに練習する中で、時にはケンカをしながら一つにまとまっていく姿や、本番当日の演奏、そして順位発表の瞬間は何度見ても感動的です。
1974(昭和49)年の航空写真。小学校校舎、管理館、今の小学校職員室棟に加え学園講堂も確認できます。戸畑は面積が小さいうえに当時は人口密度が高く、学園の近くには公立の学校も多くあり、写真の中にもあちこちの学校と運動場が見えています。
1975(昭和50)年。旧校舎の玄関で高校1年生の記念写真。1970(昭和45)年制定の現在の制服です。紺のジャケットに蝶ネクタイ、タータンチェックのスカートの制服は当時珍しく、修学旅行先で学校名を尋ねられることもあったそうです。
1979(昭和54)年の阿蘇でのサマースクール(宿泊研修)、菊池渓谷で撮られた記念写真です。学校を離れて仲間と生活するなかで親睦を深め、自然に触れ、集団規律を学びました。みんなで作った班旗を掲げての一枚です。
1980(昭和55)年。現在の高校A棟(左側)と中学男子棟(右側)が完成します。木造の旧校舎に代わって建てられた鉄筋コンクリートの校舎は、各教室にロッカースペースが広く確保され、廊下や階段もゆとりがあるつくりになっています。
1980(昭和55)年。創立70周年記念図書館が建設されます。周囲を掘り下げた半地下の中高図書館は円形の閲覧室がユニークな建物です。落ち着いた雰囲気で読書、学習の環境を生徒たちに提供してくれます。完成時には保護者向けの内覧会が行われました。
1982(昭和57)年。明小のクリスマスの集いといえば今も「聖劇」です。現在は4年生が全員で演じますが、このころは全学年からキャストが選ばれていました。牧場の羊も低学年が演じていたようです。
1984(昭和59)年。小学校体育館棟が完成しました。大きな十字架が特徴的で、松並木のバス通りから最初に目に入る建物として、学園のランドマークにもなっています。北九州市優良建築物として表彰されました。
1984(昭和59)年。マルグリット・ブールジョワ列聖の記念として正門近くに像が建てられ、小中高各部門で除幕式を行いました。写真は高校の式典の様子。当時の夏服の高校生たちが遠藤校長先生のお話を聞いているところです。
1984(昭和59)年6月、中学男子クラスの参観授業の様子。今の中学男子棟ができてまだ4年だった頃です。参観授業になると、中学生でも緊張するのかどうしてもいつもと違う雰囲気になってしまいがちでした。後ろの壁は近年のリニューアルで取り外されています。
1985(昭和60)年。当時のCNDの総長様、Sr.マドレーヌ・ロシェット(2列目左から4人目)とご一行が学園を訪問されました。明治学園にお勤めのシスター方と一緒の写真です。中高図書館の上のマリア像前で撮られています。
1986(昭和61)年の航空写真。高校A棟も完成し、B棟以外のほとんど現在の学園の建物がそろっています。記念体育館やグラウンドになる土地はすでに建物はなく、空き地になっているのが分かります。
1986(昭和61)年の中学校競書会。総合体育館に集まって書道の腕を競いました。この年のお題は「克己」だったようです。
1987(昭和62)年5月の小学校大運動会。明小の運動会の見せ場のひとつ、6年生の鼓笛演奏です。1967年から今もその伝統を引き継ぎます。スカーフにベレー帽の姿も、カラーガーズの帽子も写真の頃と同じです。また「うんどうかい」の大看板も変わっていません。
4.新しい時代の幕開けとともに(1989- )
1990(平成2)年5月、1年生のグリーンスクール(宿泊研修)。当時は山口県の豊浦町の施設に宿泊して活動していました。1年生は海、2年生は山の自然に触れるというコンセプトでした。中間考査後すぐに出発で、少し打ち解けてきたクラスメイトとぐっと親密になれました。
1990(平成2)年。中3男子クラス、英語の授業風景です。明中の英語の教科書と言えば「プログレス」。B5版の分厚い教科書に単語や表現がぎっしり詰まっていました。
1990(平成2)年。仙水町の校地に隣接する土取町に創立80周年記念体育館が完成します。写真は落成直後のもので、まだ横のテニスコートやグラウンドはありません。大型体育館は総合体育館とあわせて2棟の体制になり、スポーツ設備も充実した学園になりました。
1991(平成3)年9月。高校の体育祭です。この年まで中学は「運動会」、高校は「体育祭」で、合同の行事ではありませんでした。翌年から高校に男子が入学、これが女子高最後の体育祭となりました。学年間対抗戦で、種目も執行部が中心となって決めていたそうです。
1992(平成4)年4月。いよいよ高校に男子が入学します。ブレザー姿の高校男子1期生のクラス写真です。明治学園に新しい時代が到来しました。これで男女ともに学園での12か年の学びの場が提供されることになりました。
1992(平成4)年。この年、高校に男子が入学するのに合わせて中高の校歌が新しくなりました。作詞されたSr.菊池多嘉子先生と作曲された髙田三郎先生が来校され、5月21日に講堂で生徒たちに歌唱指導をしてくださいました。
1993(平成5)年4月。中学校入学式後のクラス開きの様子です。新しい制服に袖を通し、新しい先生、新しい仲間に出会う期待にあふれる始まりの日。明治学園は中学が別学のため、女子のみ、男子のみのクラスに戸惑ったり驚いたりする日だったかもしれません。
1994(平成6)年。中2の「スキー修学旅行」です。最初は白樺湖、以降は長く志賀高原が行先でした。朝から夕方まで白銀のゲレンデでひたすらスキーの練習に打ち込みました。1983(昭和58)年から2011(平成23)年まで続きます。
1994(平成6)年、高校B棟完成。男子が高校に入学するのに合わせて新築が決定されました。5階建ての建物で、教室のほかに高校理科室、宗教室、会議室、マルグリットホールもこの中にあります。
1994(平成6)年の航空写真。高校B棟も完成し、修道院も現在の位置に建て替えられ、土取町校地の80周年記念体育館の横にはテニスコートと記念グラウンドが見えています。
1995(平成7)年。10月末の「にこにこウォーキングin明治」です。中高合同で、初めのうちは歩く距離を20㎞か30㎞で選べました。20㎞コースは皿倉登山口-皿倉山頂-河内貯水池-七条-明治学園。完歩賞が発行され、記念のタオルが渡された年もありました。
1996(平成8)年7月、高校1年生の野外実習。登山中の男子の様子です。九重町のキャンプ場に宿泊して自炊し、九重登山を通して体を鍛え、自然を満喫するとともに、親睦を深めました。